絶対なる「自由」をめざして

相対的な「自由」と絶対的な「自由」の違い

 

シュタイナーが定義した「自由」を考察すると、一般的に使われる「自由」とは違うと感じられることでしょう。ふつう、自分の好みで何かをすることを自由と言います。好きな音楽を聴き、好きなものを食べるのが自由です。嫌いな仕事をしないでテレビを見ていると、自由を感じます。好きなことをしているのが自由、嫌いなことをせざるを得ないのが不自由です。するとその自由は、好き嫌いという感情の問題、すなわち「感情の自分」に関係するものになります。

さらに、自分の思いのままにできるのも自由です。他方、思いのままにできないのは不自由です。それは苦しみになります。

このように、一般でいう自由と苦しみは相反するものです。一方、さきほど途べたように、「本当の自分」は苦しみの中にも、自由を見つけることができます。「感情の自分」の自由の場合、うまくいっているときはいいのですが、うまくいかないと自由が不自由になります。

 

好きなことをするために、あるグループで活動しているとします。みんなで仲良くやっていたのに、ある人が入ってきて、雰囲気が悪くなったとします。その結果、グループで活動していても、楽しくなくなります。「感情の自分」は不自由になります。

一方、「本当の自分」がこうだと思ってやっていれば、ある程度いやなことがあっても不自由になりません。「本当の自分」は、他者に不必要な影響を受けないで進んでいけます。

 

選択の自由の危うさ

 

もうひとつ、「選択の自由」という概念があります。選沢の自由とは、AとBとCがあって、どれか好きなものを選べる状況にいるということです。自分は選ぶ側にいます。選択肢は多い方がよく、それらの中から気に入ったものを選べる点に心地よさを感じます。

今は、特に情報や品物に開して、昔と比べてたくさんの選択肢があります。お店に行けば、ものがあふれています。同じようなものでも、色や形が少し違う商品がたくさん並べられています。その中から自分の好みのものを選ぶのは、楽しいことです。ただしそれは、選べるという条件が備わっている場合のみです。選沢の自由に頼っている場合、対象がひとつしかなかったら、不自由を感じます。

反対に、選択肢が多すぎても困ります。今や、情報はひとりの人間が処理できないほどあります。山と積まれた情報を目の前にすると、うんざりします。多くの情報を処理できるコンビューターと比べると、人間は能力がないのだと思い知らされます。選択肢が多すぎると、そこから逃げたくなります。選択の自由は、人間を鼓舞するのではなく、萎えさせることもあるのです。

要するに、自由になるかどうかは、選択を与えられた自分の側にあるのではなく、選択肢を作った側にあります。条件がよければ自由になるという、相対的な自由です。しかも、品物を作る側は消費者の嗜好を研究し、欲望をかきたてるような言伝にたけています。よくよく考えると、自分は選ぶ側(能動)にいるのではなく、実は選ばれる側(受動)にいるのだと思い知らされます。

前節で途べたように、「本当の自分」が主体となると、自分の心の持ち方で自由になれます。自由になるかどうかは自分しだいです。それは言ってみれば、絶対的な自由です。このように、同じ自由という言葉でも、まったく違うことを指しています。それに気づくためにも、「本当の自分」を大切にしましょう。「本当の自分」に気づき、大事に育てていけば、シュタイナーが沢いた「真の自由」を獲得できるようになります。

 

 

文=志賀くにみつ(シュタイナー研究家)

 

この記事は、
シュタイナー研究家 志賀くにみつ 著書
『はじめてのシュタイナー〜人生のヒント〜』
より引用しています。

『あなたの運命を変える「永遠性」の実感』
無料のPDFを受け取れる公式ラインはこちら

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です